誰一人同じ人生を歩む人はいない。 「福島県の人」にもいろいろな人生がある。 原発事故で避難を余儀なくされた人、あえて避難をしなかった人。 避難をする必要を感じた人、感じなかった人。 「形としての家」は残っているけれど、避難指示が出ていて今でも家に帰れない人。 「形としての家」は残っているけれど、家中イノブタやネズミに荒らされてしまった人。 家が津波で流されてなくなってしまった人、津波の被害を逃れて家がある人。 補償金をもらった人、もらっていない人。 家の近くに放射性物質の仮置場ができた人、できていない人。 家の近くの放射線量が高い人、低い人。 仮設住宅に住んでいる人、借り上げ住宅に住んでいる人、新しく家を買った人。 避難指示が出ている家にあえて帰った人、そもそも避難せずに住み続けている人。 いろんな人がいる。みんな違う。 でも、お互いに自分の思っていることを直接相手に言う機会は少ないのかもしれない。 だから、まわりまわって「誰が言ったかわからない形」で当事者の耳に冷たい言葉が届いたりする。 「誰かわからない人の口を借りる」ことによって、誰も責任を取らないというやり方だ。 聞きにくいことでも、やはり直接対話する必要があるのではないか。 直接対話すれば解けるような、「つまらない誤解」もあるのではないか。 この距離感を、「日本的な相手への思いやり」が生み出しているのだとすれば、不幸というほかない。
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