原発被災地からの立候補


松本さんの自宅
(津波で流された楢葉町の松本氏自宅)

「東日本大震災から二年近く経ちます。しかし、その間、福島の警戒区域にはほとんど国会議員が入りませんでした。
 被災地の仮設住宅には、一人暮らしの老人もたくさんいます。私の知っている84歳のおばあさんは、60歳の息子が倒れ、一人で頑張っている。こういう人達をどうやって救ったらいいのか。対応を考えて地域の声を考えなければいけない。それには現地の声を国政に伝える人間が必要です。私はそういう思いで立ちました」

 2012年12月3日、福島県双葉郡楢葉町の町議を勤めていた松本喜一(まつもときいち)氏は、同日付で楢葉町議を辞職。いわき市役所内の記者会見で、福島五区から立候補(日本未来の党公認)することを明らかにした。

松本喜一さん
(松本喜一氏)

「(昨年12月16日に)野田さんが原発事故の収束宣言をしたが、私は事故前から原発立地自治体の町議として東京電力に説明を求めてきました。そのたびに東京電力は『5重の壁で守られている』と言ってきました。それがすべて吹き飛んだんです。コンピュータ制御もできない、中も覗けない。そんなものが4機もあって安全なのかという思いもある。原発の安全とはどういうことなのか。まったくものを心得ていないのか。そういうことを選挙中も訴えていきたいと思います」

 できたばかりの「日本未来の党」から出馬する理由については、

「嘉田知事の『卒原発』と考え方がマッチしたので出ることを決意した。原発は動かすと廃棄物が増えるので止める。法律を変えて燃料棒を取り出して、そこにガスコンバインドサイクルの発電装置を作れば有効利用できると考えている。これを選挙中も訴えて、当選できたら仲間を増やし、住民の声を大きくして、実現したいと考えている」

 と説明。また、自身の被災体験にも触れ、次のようにも述べた。

「私自身、福島県双葉郡楢葉町の山田浜地区で家を津波で流された。ここは東京電力福島第一原発から約18km。楢葉町に帰ろうかと言ったら、ほとんどの人がすぐには帰らないと言う。けれど、10年経ったら望郷の念が起きて帰りたいなということが起きると思う。健全な状態になったら必ず戻る。故郷を捨てないような施策をしていきたい。
 警戒区域、被災地の中に入ってみるとわかるが、楢葉町は震災直後と同じ状況です。8月10日に警戒区域が解除されて除染は進んでいるが、がれきは散乱し、田んぼには外来種の草が真っ黄色な華を咲かせている。あそこに住民を帰していいのか。
 原発の安全性が担保できないうちは帰るべきではない。そして防災計画の見直しもされていない。
 2011年3月12日の朝、楢葉町はいわきに向けて避難したが、通常は1時間で来るところを、36号線しか使えなかったので8時間もかかった。私は『高速道路に乗せて避難させろ』と言ったが、高速を使うという避難計画すらなかった。今の状態で帰れというなら、核シェルターを作って、短期で1か月暮らして避難できるという状態を作らなければダメだと思う」

セイタカアワダチソウ
(楢葉町内のビニールハウスを突き破って咲くセイタカアワダチソウ)

 国政に挑戦するかどうかは、ぎりぎりまで悩んだという。

「東日本大震災、原発事故から20か月が経ちますが、私は震災直後から現場に毎日入っていました。(警戒区域が設定された後は)中には許可証がなければ入っていけませんでしたが、避難しない人たちもいて、水や食料を届けていた。そういう中で国会議員と会って話すと『法律がなくて入れない』と言うんです。
 しかし、議員立法でやればお金がかからない。議員が警戒区域の中に入るのは法律を変えれば簡単で予算がかからない。これすら提案できない議員では困ると思ったのです」

 記者会見の場に現れた松本氏は、作業着にネクタイ姿。その服装を自身の言葉でこう説明した。

「私が作業服を着ているのは、『見えない敵』の放射能と戦っている、『戦時下にいる』という意識で、自分を戒めるためにこれを着ているんです。
 いまは、ほとんどの方がスーツを着ている。これが当たり前のような気になるが、実際、被災地は一つも変わっていない。今の政治家の方々に、『我々は法律を作る立場にいるんだ』と思い出してもらいたいのです」

 しかし、松本氏はふるさとに帰ることを決してあきらめたわけではない。

「私は『必ず帰れる』と思っています。その根拠は広島や長崎。広島も長崎も爆心地が帰れているので、必ず双葉地方も帰れると確信している。10年ぐらいのスパンで、政府で研究してお金出して、今も収束作業中の原発の安全も確保できればと考えています。
 第一原発は使えないので、第二原発のほうは卒原発にして、安全に燃料棒を抜いて、原子炉を取り外す。そして効率のいいガスコンバインド発電所に置き換えていきたいと考えている」

 今回の出馬は突然だったため、松本氏の選挙は手作りそのものだ。

「私は選対本部長も出納責任者も全部一人でやっている。一人で立候補して、一人で選挙戦も戦っていく。思い切った選挙をさせてもらう。これまでの町議選も全部手作りでやってきた。手続きからなにから全部一人でやってきた。今の政治家の人達も、一回くらいそういう手続を自分でしたほうがいいんじゃないですかね(笑)」

 現在もいわき市内の借り上げ住宅で避難生活を送る松本氏。復興の願いを込めて自身でオープンした「そば屋」を選挙事務所にするという。しかし、そのそば屋も選挙期間中は休業せざるをえない。

「本当にまだ一人で、選挙事務所には誰もいないけれど、自分一人でもやる。それが本当の選挙なんじゃないですかね」(松本氏)

 原発被災者がたった一人で始めた戦い。どんな結果になるだろうか。

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