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私が自由報道協会を辞めた理由

【1】自由報道協会の理事退任および退会について  私、畠山理仁は2012年12月7日付で自由報道協会の理事を退任いたしました。また、同日付で自由報道協会への退会届けも提出いたしました。  これまで協会への寄付、ボランティア、叱咤激励などを通じてご支援いただいた皆様に心から御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。  その一方で、お詫びしなければならないこともあります。それは私が理事を退任し、協会を退会した理由について、詳しい説明をしてこなかったことです。日々の生活、事実確認、また、心の整理にも時間がかかり、ここまでご報告が遅れてしまったことをお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。  私は2011年1月27日の「自由報道協会(仮)」発足時から、2012年4月末までの間、事務局および広報担当者として協会の運営に関わってきました。それはひとえに自由報道協会の「崇高な理念」に共感していたからです。  私はその間、協会を運営していくために、多くの方々に寄付のお願いをしてきました。時には私個人への寄付を申し出て下さる方もいらっしゃいましたが、個人宛ての寄付はすべてお断りしてきました。そして、そうした方々へは、協会への寄付をお願いしてきました。  そのような態度を取ってきた私が協会の理事を退任し、また退会するのであれば、せめて個人的な理由だけでも説明するべきだと考えました。そこで、私に期待を寄せて下さった方々に対する謝罪の意味も込めて、退会に至った経緯を説明したいと思います。 【2】なぜ自由報道協会に参加したのか  退会の経緯を語る前に、まず、なぜ私が自由報道協会に参加したのか、その理由を簡単に述べたいと思います。  自由報道協会のスタートは、2011年1月27日に発足した「自由報道協会(仮)」でした。この団体を立ち上げる前には、上杉隆氏、神保哲生氏、渡部真氏、そして私の4人が集まり、「取材・報道するものであれば誰でも参加できる団体を立ち上げよう」という話をしました。  私がこの団体に関わっていこうと思ったきっかけは、各省庁で開かれている「公人」の記者会見へのアクセスが、フリーランスの記者に対して閉ざされている現状を目の当たりにしてきたからです。  本来であれば、各省庁の大臣・官僚など、「公人」の発言機会で

原発被災地からの立候補

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(津波で流された楢葉町の松本氏自宅) 「東日本大震災から二年近く経ちます。しかし、その間、福島の警戒区域にはほとんど国会議員が入りませんでした。  被災地の仮設住宅には、一人暮らしの老人もたくさんいます。私の知っている84歳のおばあさんは、60歳の息子が倒れ、一人で頑張っている。こういう人達をどうやって救ったらいいのか。対応を考えて地域の声を考えなければいけない。それには現地の声を国政に伝える人間が必要です。私はそういう思いで立ちました」  2012年12月3日、福島県双葉郡楢葉町の町議を勤めていた松本喜一(まつもときいち)氏は、同日付で楢葉町議を辞職。いわき市役所内の記者会見で、福島五区から立候補(日本未来の党公認)することを明らかにした。 (松本喜一氏) 「(昨年12月16日に)野田さんが原発事故の収束宣言をしたが、私は事故前から原発立地自治体の町議として東京電力に説明を求めてきました。そのたびに東京電力は『5重の壁で守られている』と言ってきました。それがすべて吹き飛んだんです。コンピュータ制御もできない、中も覗けない。そんなものが4機もあって安全なのかという思いもある。原発の安全とはどういうことなのか。まったくものを心得ていないのか。そういうことを選挙中も訴えていきたいと思います」  できたばかりの「日本未来の党」から出馬する理由については、 「嘉田知事の『卒原発』と考え方がマッチしたので出ることを決意した。原発は動かすと廃棄物が増えるので止める。法律を変えて燃料棒を取り出して、そこにガスコンバインドサイクルの発電装置を作れば有効利用できると考えている。これを選挙中も訴えて、当選できたら仲間を増やし、住民の声を大きくして、実現したいと考えている」  と説明。また、自身の被災体験にも触れ、次のようにも述べた。 「私自身、福島県双葉郡楢葉町の山田浜地区で家を津波で流された。ここは東京電力福島第一原発から約18km。楢葉町に帰ろうかと言ったら、ほとんどの人がすぐには帰らないと言う。けれど、10年経ったら望郷の念が起きて帰りたいなということが起きると思う。健全な状態になったら必ず戻る。故郷を捨てないような施策をしていきたい。  警戒区域、被災地の中に入ってみるとわかるが、楢葉町は震災直